まるで役に立たない日記

映画やら本やら日常やら内省やら

Twitter疲れた、ブログはじめた

 

Twitterに疲れた。関係値がそれぞれである人様のタイムラインに自分の投稿が流れ込む仕様や、関係者各位のエゴサに意図しないかたちで触れてしまうおそれから、やっかいな自意識が発動するようになり、うかつにつぶやけなくなってしまった。

これはTwitterに限らないけど、何かを言葉にしようとすると、他者の目線やら通俗の観念やら論理やらあらゆる要素に制約されて取り繕ろうとする自分に気づく。取り繕った結果その「何か」は再定義されてしまい、自分が最初は何を考え感じていていたかがわからなくなる。再定義されたものも自分の一部ではあるけど、Twitterのはより白々しさがある。

ブログにももちろんそういう側面はあるけど、環境が閉じているのと字数の制限がないぶん気が楽で、より自然である気がする。制約要素はできるだけ少ない方がよいと思う。(あと、「X」ってどうしても言いたくないのもある。Xって何なん。)

というわけで、ここでは読み手をあまり意識せずしばらく好き放題書こうと思う。テーマとかはまだ特に決めてないけど、日々考えていることやらよかった映画やら本やら音楽やらの感想は書くはず。私の海馬は死んでいるので、よい出会いがあったら、記憶が消えてしまう前に書きたい。

少なくとも実用性のあることはあまり書かないので、読んでも何の役にも立たないと思う。ただの自己満足なので誰にも読まれなくてもよいけど、もし誰かに届いてくれたらそれはそれで嬉しい。

 

最近の映画とか

カッコーの巣の上で』(1975) 監督:ミロス・フォアマン

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精神病院に入院してきた主人公が、人間性を無視してまで患者を統制しようとする病院に仲間たちと反抗し自由を勝ち取ろうと試みる話。不朽の名作といろんなところで聞くので観た。

構図としてはニューシネマらしく主人公側 vs 体制側(病院)で、後者を悪者扱いにする意図を感じたけど、私はどちらかというと職務を真っ当している体制側(というか、看護師長)のほうに思いを寄せてしまった。そうせざるを得ない彼女の事情もしくは、そうしたいと思う思想が気になる。

数年前、繁忙期に観た映画『プーと大人になった僕』で、「それは風船より大切なもの?」とのたまいあらゆる手で主人公の重大な仕事を邪魔しようとするプーたち(主観)に終始殺意を抱いていた私なので、いま人間性や感性が死んでいる可能性もある。10日間くらい連休を取ってからもう一度観る必要があるかもしれない。助けてくれ。

 

『バチェラー・ジャパン』シーズン5 最新話(エピソード8)まで

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学級会のシーン、それぞれの女性たちの気持ちが理解できた(ように思えた)ので、辛かった。

月田さんは自分の感情に耳を傾けずに、「自分はどうあるべきか」「何を求められているか」を常に考えてきたタイプなのかなと思った。だから「成長せねば」「変わらねば」という焦燥感や義務感はあれど、自分が本当は何を感じていたり求めていたりするかは実はよくわからなくなっている。自分を変えるために番組に出て、番組原則にしたがって長谷川さんのことを好きだと思い込もうとしていたけれど、本当のところは別に好きではなかったというか、よくわかってないだけなのでは? と思った。知らんけど。

いずれにしろ、SNSで論争を起こせたら番組としては成功だね。明日公開の最終話楽しみだ。

 

終わるぞ

ひさびさに仕事以外で140字以上の文章を書いたけど、癒されている気がする。私は生来の感覚過敏と思考の反芻癖により生きているだけで疲労困憊になりやすい内省虚弱(そんな四字熟語はない)なタイプなので、予定を入れず数日間薄暗い部屋に篭ると少し回復する。文章を書くと、さらによいことに気づいた。今後もやっていこ。